最新記事

「第1回 シャルワール・カミーズ」グローバルサウスの片隅で/ 三砂ちづる

 40代なかばからきものを日常着として着始めておよそ20年経つが、なぜきものを着始めたのか、最初の理由は大変はっきりしている。わたしは、民族衣装フリークなのである。日常、今、世界中の誰もがきている西洋風の衣料とはちがう、民族衣装が好きなのだ。
世界中の誰もが着ている西洋風の衣料、と、さらっと書いたけど、これは別に西洋の伝統衣装ではない。とりわけ女の服装に関していえば、これは、ひとえに、シャネルが作り上げたスタイルと言える。有名百貨店とかブティックにならぶCHANELの店舗の、あの、シャネル、ココ・シャネルである。現在、われわれが毎日のように着ている衣服のスタイルの最も基礎をつくったのはシャネルなのである。それまで西洋の女たちはどろどろと長い丈のスカートを履き、金持ちの女たちは、頭のサイズとぜんぜんあってないが、鳥の羽とか花とか満艦飾の帽子をかぶり、ウエストをひきしめ、足が見えるのははしたない、と思うような服をきていたのだ。貧しくても、野良着であっても、丈が長いスカートをはいていたわけだ。
 シャネルが、スカート丈をさっさと切ってしまった。ジャージー素材をはじめとする、今まで下着としてしか使われていなかった素材を表舞台に持ってきた。歩きやすくて動きやすい活動的な服を、おしゃれである、と彼女が定義し、フランスのリゾート地から、はやらせ始めたのである。
帽子は、飾りを全部取り去り、頭にぴったりとあい、頭を保護し、日差しをさける帽子本来の役割を取り戻させた。ウエストをしぼらず、すとんとした、スタイルをつくりあげた。髪も耳の下くらいでばっさり切ってしまう。とんでもない値段の宝石なんかいらない。きらきらして、美しいものなら、素材を問わない。アクセサリーは趣味が良くて美しければ良い。ダイヤモンドやサファイアのちりばめられたネックレスを流行遅れにしてしまった。
そう、流行遅れ。シャネルは、いわゆる西洋の古い形の女性のスタイルを一挙に葬り去って、流行遅れにしてしまったのだ。自分が着たい服、自分が着て快適と思う服、自分がやりたいことをいちばん好きなようにできる服。男性の乗馬服を参考に、まことに動きやすく自由な服を作り上げ、それこそをモードの最先端に持ってくる力量を、シャネルは持っていた。まず、自分が着るのだ。自分が着たい服を。
 シャネルの作り上げた初期のスタイルは今、銀座で着てもおかしくない。ストン、としたジャージーの黒い膝下丈のワンピース、きらきらした(安物素材でできた)ネックレス、ボブのヘアスタイル、ニットキャップ。普遍のスタイルを編み出した。女性たちはとびつき、長い丈、ウエストのしまった西洋スタイルをあっという間に過去のものにした。このシャネルの存在が、今の女性たちの今のスタイルを作り上げたのだ。シャネルがいなければ、今も、流行の最先端は、羽根の帽子にコルセットの延長、だったかもしれないのだから。
というわけで、“洋服”自体に大革命を起こした張本人がいた、というべきだが、とにかく、ジャージー素材、綿素材、やわらかくて、着やすい、ある意味下着との境界があくまでよくわからないような快適な服がわたしたちの日常となったのである。
 ともあれ、シャネルがその才能でもって基礎がためしてしまった西洋スタイルは世界中を席巻し、今や、世界中の女は、似たようなかっこうをしている。あまりお金がない人たちが着るのもTシャツにパンツ、というようなスタイルになって行ったのである。そんななか、アジアやアフリカの国々には、わたしが海外に出始めた1980年代から今にいたるまで、伝統衣装が残っている国が少なくない。それがまた、本当に美しく、機能的なのである。
わたしが最初に魅了された伝統衣装はパキスタンのシャルワール・カミーズだった。イメージできるだろうか。ゆったりとしたパンツに共布の、長いチュニック、その上からスカーフをかぶる。もちろんスカーフは、イスラム圏の国だから、必須アイテムなのであるが、そのひとつひとつが実に美しい。生まれて初めて海外渡航した時に乗ったのはPIAパキスタン航空だったが、そのCAさんの制服にまずは魅了された。パキスタンのナショナルカラーであるグリーンを基調にした、パンツとチュニック、胸には綺麗な刺繍が施してあり、それにさらりとスカーフを巻いている。スカーフはふわりと前から後ろに垂らしている人も多かったし、さりげなくシニヨンの髪に後ろを引っ掛けている人もいた。このイスラム圏のスカーフの使い方自体があまりに美しく、とにかく魅了されたのである。それは民族衣装の洗礼、のような経験だった。
 1981年の夏のパキスタンである。生まれて初めて降り立った海外の地がパキスタンであった。それからアジア、アフリカ、ラテンアメリカと、いろいろな南の国で仕事をする機会があったが、今思っても、パキスタンは日本の日常的風景から最も遠いところにある国の一つだったのではないかと思う。
高度成長期を経た日本の風景は、今とそれほどかわらない建物や風俗であって、もう伝統的な生活をする人も、伝統衣装であるきものを日常とする人もほとんどいなくなっていた。アフリカやラテンアメリカの都会は、ほぼ、西洋社会のコピーであったし、東南アジアの多くの国も、女性たちは伝統衣装を身につけていても街の姿はすでに近代的なものであった。パキスタンは、CAのみならず、街ゆく女性たちはほぼ全員がシャルワール・カミーズを身につけ、男性もゆったりした伝統衣装を着ていた。ラワルピンディのマーケットの喧騒は十分に異国に来た、と感じさせられたし、海辺に行けばラクダがゆったりと歩いていた。
 海外というのは、ずいぶんと違うところだなあ、と思うが、あれから40年以上経った今、当時のパキスタンほど日本から遠く感じるところはなかった、と思う。同じイスラム教の街でも、例えば当時のアフガニスタンのカブールはとても近代的な街になったことで知られており、女性たちもショールもつけず、長い髪をなびかせて、ミニスカートを履くような街であったことも記憶している。それからのアフガニスタンは推して知るべしなのだが1958年生まれのわたしの世代のアフガニスタン人は、大変西洋化したアフガニスタンを知る人なのだ、と思うことは、今では感慨深い。
 パキスタンの女性の衣装にうっとり魅せられてしまったので、ラワルピンディの市場で、くすんだ赤のシャルワール・カミーズを買い、薄くて白いショールも買った。パキスタンではショールで、顔を隠すようには使っていない。ショールはつけていれば良い、という感じで、真ん中を胸の下にくるようにして、ショールの両端を均等な長さにして、両肩にかけたり、CAさんのように、シニヨンのうしろに、ショールの真ん中をひっかけて、両端を前に持ってきてから交差して肩から後ろにかけたりする。わたしが気に入っていたのは、ショールを片側三分の一くらいの長さで頭頂からかけて、短い方の端は背中に流す。長い方は首の前からまわして短いほうの端にかさねて背中に流す、というやり方だった。結び方、というほどではない。どこも結んでいないからだ。少し日よけにもなり、うしろにショールがなびく感じも気に入っていた。
 このムスリム女性のショールの使い方と、体の線を強調しない伝統衣装のあり方は、それからずっとわたしの憧れで、これは、現代ファッションにも取り入れられてほしいものだ、ショール自体の使い方が非常に洗練されている、と思っていたら、2020年前後に、ハナ・タジマさんというイギリス生まれ、ムスリムと日本の文化背景を持つ現代的なデザイナーがユニクロとコラボして、まさにイスラム服を現代ファッションに取り入れた美しい衣装とショールを、ユニクロだから、まことに手に入れやすい価格で展開していた。わたしはいよいよ、こういう時代が来たか、と、興奮した。コラボ当初は、マレーシア、シンガポール風のアジアっぽいデザインのものも多く、薄い木綿のヒジャブも多彩な展開で、使いやすく、また、ムスリム女性がヒジャブの下につけるインナーヒジャブも展開していて、結構夢中になった。
 ヒジャブの巻き方自体も、ハナ・タジマさんが多彩に展開していて、こちらも大変勉強になった。長いヒジャブを縦に折って、右左をアンバランスにして頭をつつみ、後ろで結ぶのも美しいし、長い方の端をピンでとめて前後ろに流す着方も美しかった。このピンというのは、ほとんどまち針のような尖ったピンを使うのだが、のちにタンザニアのザンジバル島に行った時も、現地の女性が真っ黒で刺繍を施したジョーゼットのヒジャブをこのピンを使って美しく頭に添わせてつけていたことを思うと、ムスリム女性の身だしなみに必須のものなのかもしれない。
 ハナ・タジマさんとユニクロのコラボは、シーズンごとにややイスラム色が薄れていって、ふつうのロングワンピースとか、ヒジャブではなくて、いわゆる西洋のスカーフらしい、つるつるした正方形のスカーフになっていったりしたが、大型のアレンジ自在の素敵なデザインのスカーフはほんとうにすてきで、今も愛用している。こんな値段でこんなシックなワンピースが買えるのか、と思えるようなロングドレスを展開したこともあって、びっくりしたこともある。コラボは5年くらいで終わってしまったような気がするが、わたしにとっては、あれは歴史的なできごとだった。これからもイスラムファッションが現代ファッションに、ユニクロのようなカジュアル衣料のレベルで展開されていってほしいものだと望んでいる。

 


三砂ちづる三砂ちづる (みさご・ちづる)  
1958年山口県生まれ。兵庫県西宮育ち。津田塾大学名誉教授、作家。京都薬科大学卒業、ロンドン大学Ph.D.(疫学)。著書に『オニババ化する女たち』『ケアリング・ストーリー』『六〇代は、きものに誘われて』『頭上運搬を追って 失われゆく身体技法』『少女のための性の話』『少女のための海外の話』、訳書にフレイレ『被抑圧者の教育学』、共著に『家で生まれて家で死ぬ』他多数。

関連記事

ページ上部へ戻る