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「第17回 ドロシーさんの思い出と戦争の記憶」

なつかしい未来の国からバナー_青空と一本の木

 ドロシーさんとお会いしたのは、二〇一九年の一〇月の終わり頃だった。ドロシーさんは、私が会った中で一番長生きの人だった。家族ぐるみの友人の紹介で、ご自宅にお邪魔すると、自らお茶を入れてもてなしてくれた。
 目の前にいる人が一〇二年間も生きてきたっていうのは、少し私の理解の範囲を超える事実だった。彼女は今までの自分の体験を自伝やいくつかの短い記事にしている。お会いした時に、私が日本のウェブマガジンに記事を連載していると話したら、いつか、自分の戦争についての経験を書いた文章をそこで公開していいよとおっしゃった。
 ドロシーさんは、今年の四月にその長い人生の幕を閉じられた。お会いした時は、「また今度パラグライダーに乗るんだ!」というくらい元気だった。本当は、生きていらっしゃる間に、文章を公開したよ!と報告したかったのだけれど、間に合わなかったことが悔やまれる。お会いした時、記念に写真を撮ろうとしたら、スマホの電池が切れていた。残念ながら一緒に写真に映ることはできなかったけれど、ほんの一時でも、同じ空間で過ごせたことを嬉しく思う。

 八月は日本にとって戦争の記憶を振り返る機会が多い月だ。
 ニュージーランドというと、第二次世界大戦の時日本と関わりがあったなんて、知っている人はほぼいないと思う。私も知らなかった。けれど、以前オークランド博物館を訪れた時、「Jap is coming! (日本がやってくる!)」という文字と、日本軍の軍人が機関銃をかまえているポスターが飾ってあり、ニュージーランドの人たちは、日本から侵略を受けるという危険を感じていたことを知って驚いた。

日本兵のイラストポスター

オーストラリア戦争記念館所蔵のポスター。私がオークランド博物館で見たポスターは、これのニュージーランドバージョンだった。メッセージは「彼らが南にやってくる。戦うか、死ぬか」。日本兵が侵略しにくる恐怖を描いている

 ドロシーさんが私に共有してくれた文章は、そんな戦時中の頃の体験だ。戦争は、始まった時点でどちらの国も負けている。それは、失われる必要のない命が、殺されていくから。戦時中だったら、こんな風に一緒に座ってお茶をすることなんて想像すらできなかっただろう。ドロシーさんも「昔はあんなことがあったけれど、こうしてお互いのことを知れるのは本当にいいことね」と言ってくれた。そういうわけで今回は、ドロシーさんの体験を共有させてもらいたい。

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戦争の記憶 (注)

 私が二二歳になる一〇日前に、ドイツがイギリスに宣戦布告した。それは、修行見習いを終え、私がワイカトという小さな街で、自分のビジネスを始めた頃だった。兄弟の一人が既にビジネスをその街で始めていて、町外れに親戚もいたので、私の名字はその小さな街の中で、良く知られていた。それは、小さな街では役に立つことだった。すぐに私のビジネスも軌道に乗っていった。私は、綺麗なドレスを作るのが好きだったから、ウエディングドレスを作ることを専門にしようと計画していた。

 約束された未来が待っているようだったけれど、ヒットラーによってそれは奪われてしまった。たくさんの男性たちが軍にとられていき、私たち独身女性たちは、彼らの穴埋めをしなくてはならなかった。私のビジネスは必要ないものだとみなされ、辞めざるをえなかった。オークランドの修行見習いのころ、下宿させてもらっていた家族のところへ戻ることになった。

 そこの家長のことを、「お父さん」とも「旦那さん」とも呼ぶ気になれず、彼の名字を短くして、「ベンジー」と呼んでいた。ベンジーは婦人服産業の中の裁断をする会社を経営していた。オークランドの中では小さい方で、四〇人から五〇人ほどの従業員がいた。会社では、戦時下に必要なものの製作を強いられるようになっていった。「私のところで働くといい」とベンジーが言ってくれて、すぐに仕事を得た。私は他の四人と一緒に、「特別課」というところに配属された。私たちはすぐに仲良くなった。

 そしてすぐに、補助チームに移動することになって、夜と週末にあるトレーニング用の制服をもらった。私たちは、各自が持つスキルによって分けられた。四人兄妹の末っ子で、唯一の娘だった私は、いつも男の子と同じようなことをしていた。私たちが初めてフォードの車を買ったとき、私はすぐにクランクハンドルを使って車のエンジンをかける方法を学んだ。そして、ギヤの変え方や、プラグの交換の仕方、タイヤの付け替えやチューブを曲げる方法を学んだ。他にも重要なことがあった。それは、「八番のワイヤーとチューインガムさえあれば、なんだって大体直せる」ってこと。そして、私は運転手にも選ばれて、患者さんが乗っていない救急車だって運転した。

 戦争で男性たちが死んでいってしまったのは悲しい記憶だ。毎晩九時になるとBBCが放映された。ビッグベン(訳注:イギリスの国会議事堂時計塔の時鐘)のベルが、戦争についての最新のニュースの合図だった。ヨーロッパでの戦争で、どんなことが起きているかが耳に入ってきた。誰も口を開こうとしなかった。

 多くの女性たちは、働きながら一人で静かに歌を口ずさんでいた。「特別課」にいた私たちは、たまに一緒になって歌った。そうしているうちに、一つの計画ができた。それは、陸軍のために “Kiss me Goodnight, Sergeant Major” を、海軍のために “The Blond Sailor” を、空軍のために “Coming home on a Wing and a Prayer” を歌って、そのあとに “The Army, The Navy, and The Air Force” (この時代にとても人気だった曲!)を昼休みの後に歌うという計画だった。すぐに、どんどん一緒に歌う人が増えた。いつの間にか、それは習慣になっていった!

 隣は救世軍のホテルで、その窓は私たちの方を向いていた。ある日、空軍の兵士たちが、迎えが来るのを待っていた。南方へ派遣されるのが決まったのだった。私たちは、彼らと窓越しの友情を築いていた。彼らの制服は直す必要があったから、私たちは上司に、彼らの制服を直してもいいか頼んでみた。上司はお金の請求なしで、やることを同意してくれた。そのお礼に、彼らは私たちをダンスに誘ってくれた。

 バーバラはとても恥ずかしがり屋で、「見知らぬ男性とダンスをする」のは乗り気じゃなかった。でも、「みんなで行って、誰か一人が彼女と家に帰る」と約束した。バーバラはYMCAの最上階に住んでいた。そのダンスの夜に、バーバラは一人の若い男性と出会い、連絡を続けることにして、その後結婚し、五人の子供を授かった。とても、幸せなお話。

 でも、すべての話が幸せなわけではなかった。ジョイのフィアンセは、数カ月先のジョイの誕生日のための花束を予約して、戦地に着いてすぐ、死んだ。その花束は、彼が死んでしまったあと、彼女の誕生日に届けられた。私たちはみんな彼女と一緒に泣いた。とても悲しい時だった。

 そして、もちろん、戦争はもう一つあった。日本が太平洋をどんどん南下してきていたのだ。シンガポールとダーウィン(訳注:オーストラリア北端の都市)が日本の手に落ちた時、ニュージーランドもどれだけ危ないかが明確になった。西海岸に繋がる道路のきわに、大きな丸太が何箇所にも渡って置かれた。敵が上陸した場合は、近くの農家は警告を受けることになっていた。東海岸が何をしたかは知らないけれど、きっと、何かしらの準備をしていたのだと思う。ニュージーランドの “Dad’s Army” (訳注:当時の国防義勇軍を指す)が国中に配置された。

 ソロモン島の北にあるトラック島は、日本軍の拠点だった。太平洋戦争にアメリカが参戦してきて、百以上の軍艦とその島にあったすべての飛行機と建物は爆破された。一五年ほど前に、私はクルーズに乗ってフィジーからグアム、そしてトラック島の浜辺を訪れた時、その凄まじさを自らの目で見てきた。シュノーケリングする人が、「ここは軍艦の墓場だ」と言っていた。私たちはアメリカに、侵略から守ってくれたことを感謝しなくてはいけない。

 ここからは、私の話。戦前に私がワイカトにいた頃、いとこや友達と一緒に、土曜日の夜のダンスパーティによく行っていた。そこで、街からそう離れていない農場で、父と一緒に農業をしていた地元の男性と仲良くなった。海軍に参加して、ライムリック号という商船の鉄砲隊に配属された。その船は、中東、アレクサンドリア、カイロにまで行った。その後、シドニーで冷凍された肉を積んで、イギリスまで運んだ。

 二カ月半にも及ぶ航海だった。待つことしかできない身にとっては、とても長い期間だった。彼の手紙はもちろん検問されていた。でも、彼はやっとのことで「もうすぐ仕事は終ると思う」と伝えてくれた。
 ユニスという同僚がある朝、「チャーリーから最近連絡あった?」と聞いてきた。「もうすぐ仕事が終わると思う」と言っていたと返事をした。ユニスの夫は、海軍の情報部員だった。その前の週末、七つの船がニューサウスウェールズ沖で日本軍に魚雷攻撃を受けていた。ライムリック号もそのうちの一つだった。だけど、ユニスにはもちろん守秘義務があった。そして、死者についての情報は誰も持っていなかった。月曜日の朝に、ヘラルドという新聞社の一面にそのことが載ったけれど、沈没した船の名前は書かれていなかった。彼らはもうニューサウスウェールズ沖にいないと思っていた私は、特に心配していなかった。けれど、私以外の人たちはみんな、ライムリック号が沈没したことを知っていた。だけど、生き延びた者がいるかどうかは誰も知らなかった。

 数日経って、仕事場で喜びの声がわき起こった。なぜだろうと思って私が顔を上げたら、チャーリーがドアの前に立っていたのだ。ライムリック号が沈んだというニュースは、仕事場で広まっていた。私だけが、知らなかったのだ。それは、ニューサウスウェールズのトゥイードヘッドというところで起きて、警報が鳴り、サーチライトが照らされ、漁船から個人の船まですべて動員して、生き残った人への救助が行われた。ライムリック号ではエンジン室で働いていた二人の男性が死んだだけだった。これは、一九四二年のことだった。チャーリーは、その時オークランドにインストラクターとして残っていたのだった。ライムリック号は夜中の一時半に沈没した。

 その後数年の間に、彼の父と、姉の夫が亡くなり、そのために彼は海軍から解放された。私たちは一九四三年に結婚し、私は農家の妻となった。牛の乳搾りをし、トラックを運転して、農場の仕事はなんでもした。それが、「長靴の戦争」仕事だった。

 最後にもう一つだけお話をしよう。これは、戦争が終わって一〇年後に知ったこと。ミッションベイの近くで、ベンジーとその家族と暮らしていた頃のある夜、静かにラジオを聞いていた。部屋は真っ暗にしていた。オークランドはそういう時代だったのだ。一つの戦闘機が上空をぐるぐると旋回していた。それは、私たちではなく、他国の戦闘機のようだった。一〇分から一五分ぐらい旋回した後、その戦闘機は離れていった。

 私たちはなんだったんだろうねと話しあったけれど、結局はわからなかった。その頃、デポン港にアメリカの軍艦が三つ碇泊していたから、多分アメリカの戦闘機だったのではないかという話になった。

 そして、一〇年後に初めて真実が明かされた。あれは、日本軍の戦闘機だったのだ。アメリカの軍艦たちが、軍事大演習にちょうど出ている夜だった。もし、アメリカの軍艦が港にいたら、オークランドでも、もう一つのパールハーバーが起こっていたかもしれない。

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 このドロシーさんの物語を読んで、以前オークランド博物館に貼ってあったポスターの逼迫感を改めて想像した。そして、今は、ニュージーランドと日本がいい関係性を持っていることに、心から安堵した。
 ドロシーさんは、彼女の自伝の中で「子ども達には意味のあるプレゼントを二つ、渡すことができる。一つは根っこで一つは羽だ。根っこなしでは木になれない。この木とは、family tree (家系図)のこと」と言っていた。

ドロシーさんの自伝Cobwebs of Memory

ドロシーさんの自伝 Cobwebs of Memory

 私は、ドロシーさんの家族ではない。けれど、日本からニュージーランドに来た者として、ニュージーランドと日本が昔どんな関わりがあったかを知ることは、この国で根っこを生やすための、大切な鍵だと思う。そして、戦争から学ぶことがあるとすれば、戦争は全く意味がないということ。戦時中は敵だと言われていた相手とも、こうして時間が経てば、お茶を囲むことができる。今でも世界中で戦争や紛争は続いているけれど、それは一生続く必要がないということを忘れずに、平和を求め続けたい。

 ちなみに、ドロシーさんは、ずっと後になって、ウェディングドレスを作って売るという夢を実現し、さらに、世界中を旅もした。戦争が終わった後も、戦争の傷がドロシーさんの人生に困難をもたらしたようだけれど、それでも、夢を叶えることを諦めなかった強さに、力をもらう。
 この戦争の頃の記憶と、人生の少しの時間を共有してくれたことに感謝を込めて。どうか、安らかにお眠りください。

海と太陽

感謝を光にのせて

 

(注)ドロシーさん提供のテキストを筆者が翻訳した。なおドロシーさんには次の著作もある。Dorothy West, Cobwebs of Memory, 2016.(私家版)
安積宇宙プロフィール画像_ニット帽
安積宇宙(あさか・うみ)
1996年東京都生まれ。母の体の特徴を受け継ぎ、生まれつき骨が弱く車椅子を使って生活している。 小学校2年生から学校に行かないことを決め、父が運営していたフリースクールに通う。ニュージーランドのオタゴ大学に初めての車椅子に乗った正規の留学生として入学し、社会福祉を専攻中。大学三年次に学生会の中で留学生の代表という役員を務める。同年、ニュージーランドの若者省から「多様性と共生賞」を受賞。共著に『多様性のレッスン 車いすに乗るピアカウンセラー母娘が答える47のQ&A』(ミツイパブリッシング)。
Twitter: @asakaocean
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