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安積遊歩さんインタビュー 手をさしのべあいながら、生きる

 好きな言葉はNever give up.

 障がいをもっていても、自由をあきらめない。
 10代でも読みやすい語り口で自分史を綴った『自分がきらいなあなたへ』と、愛娘の宇宙(うみ)さんと、さまざまな悩みに答える『多様性のレッスン 車いすに乗るピアカウンセラー母娘が答える47のQ&A』を同時出版した安積遊歩さんに、自らの半生を超短縮版で語っていただきました。

自分の体を自分で看る

 1956年、福島県内の病院で生まれ、生後まもなく「骨形成不全症」の診断名がつきました。0歳から2歳まで男性ホルモンの投与を受け、6歳の時に、最初の手術を受けました。骨が変形しないようにと、足に針金を入れ、固まると針金を取り出す。また骨折したらその繰り返し。意味がないとしか思えない手術を13歳までに8回受け、さらに脊椎の手術をすると言われて、それは絶対いやだと拒否しました。それ以来、整形外科にはかかっていません。13歳で「自分の体は自分のもの」という自覚のもと、医療モデルに決別したわけです。

 それは、のちにフェミニズムに出会った時にも再確認したメッセージでした。自分の体と、体とつながっているこの地球環境を自分で看ていくことは、私の人生の核となっています。

 

「がまんしなくていいんだ」

 6歳の時の手術のために、一年遅れて地域の学校に入学しました。5年生の時、手術で長期間休むために学年が遅れると言われ、私自身の好奇心もあって養護学校に移ります。そこで初めて、すさまじい障害者差別を受けました。「ごめんなさい」と「ありがとう」を繰り返し、社会のすみっこで生きろと言われ続けたことで、自分にはまったく価値がないと思い込まされることになりました。

 差別というのは、人々の心にはじめからあるものではなく、おしつけられ、学習していくものなのです。

 転機は19歳の時。養護学校時代の友人が家に来て、障がい者運動の集まりに行ってみようよ、と誘ってくれました。 「青い芝の会」という、脳性まひの人たちを中心とした障がい当事者グループのお花見でした。重い障がいをもつ人とボランティアの人が取っ組み合いのけんかをしたり、その対等な感じにびっくり仰天。私も「がまんしなくていいんだ、自分が思っていることをどんどん言っていいんだ」と、目が覚めたような思いでした。

 

アメリカで自立生活に出合う

 私は仲間たちと一緒に、「街へ出てみようよ」「自分のしたい生活をつくろうよ」と、重い障がいをもつ人たちの家や、施設を訪ねて回りました。共に闘う仲間を求めてチラシをまいたり、映画の上映会を開いたり、運動に没頭していきました。

 そのころ私たちは、社会の中には存在しない人のように扱われていました。そんな中、街へ出て、駅にはエレベーターを、バスにはリフトが必要だと訴えたり、介助者のための介助料を獲得したり、いくつもの社会を変える活動に取り組みました。

 次の転機は28歳の時でした。アメリカのバークレーで6カ月の研修を受けることになったのです。そこでは多様な人々が、それぞれの生活を生き生きと送っていました。私もまた、自分自身であることを大事にしながら生活し、多くのことを学んだ日々でした。

 

傷ついた日々から出産まで

 日本に帰って、いちばんしたかったことは何かと考え、結婚したい、という思いをまず貫きました。私がアメリカにいる間もずっと励まし続けてくれた重い障がいをもつ彼と別れて、障がいのない男性と結婚を求めて同棲しますが、彼の家族の大反対に遭います。学校時代の教育差別に続いて、強烈な結婚差別、つまり、女性差別でした。たくさん傷つき、アルコール依存症になりかけましたが寸前で覚醒し、一年で東京へ脱出しました。それ以来、フェミニストにもなりました。

 1986年、八王子で日本初のCIL・自立生活センターの立ち上げに参画します。自立生活プログラムのテキストを書いたり、ピアカウンセリング講座を全国で展開して、自立生活を求める仲間たちを応援し続けました。

 1994年、エジプトのカイロで開かれた国際人口開発会議に参加して、優生思想によって作られた優生保護法という差別的な法律について、世界に訴えました。優生保護法には、障がいをもつ人は強制不妊手術をすべき、と書かれていたのです。その法律によって、記録にあるだけで約1万6500人、最多は北海道の2593人が被害に遭いました。記録や証明のない人を合わせれば、数万人が手術をされているでしょう。

 1995年、私の初めての著書『癒しのセクシー・トリップ わたしは車イスの私が好き!』(太郎次郎社)を読んで講演会に来たパートナーと出会い、翌96年、強制不妊手術の規定が廃止された年に、40歳で娘の宇宙(うみ)を出産しました。宇宙は私と同じ体の特質をもって生まれてきました。

 20代の私では考えられなかった、優生思想に対する最大の抵抗である出産を、私は喜びをもって迎えました。その後も、娘との関係は、優生思想を超えたモデルでもあると、自負しています。

 

安積遊歩さんと安積宇宙さん

娘の宇宙さんと

 

手をさしのべあいながら、生きる

 シェアハウスをつくり、その仲間たちとお互いへの想像力や共感を育てながら、宇宙を中心とした生活を送りました。宇宙には多様性の尊重と、互いに関心をもって手をさしのべあいながら生きることが、もっともすてきで、幸せだということを伝えてきました。宇宙は、小学四年間は不登校。それも、とても大事な体験となりました。

 そして2011年3月、東日本大震災と、東京電力福島第一原子力発電所の事故が起きます。私の故郷は福島。反原発運動にもかかわってきたし、病院ではたくさんレントゲンを撮られていたので放射線の影響にも詳しかった私は、迷わず宇宙を連れて、友人のいるニュージーランドへ飛びました。

 『自分がきらいなあなたへ』のあとがきにも書きましたが、今は、FGM(女性性器切除)の被害に遭った少女たちのための活動をささやかですが行っています。また、私と同じ骨形成不全症の人たちの医療ケアも気になって、全国の仲間へ聞き取りを始めています。

 20歳まで生きられない、と言われた私ですが、人間は本来アクティブで、共感力ゆたかな生きもの。つらいときにはピアカウンセリングで聞き合い涙を流して、まだまだやりたいことをやり続けようと思っています。

(まとめ:ミツイパブリッシング編集部)

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