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入店拒否にあいました。こちらの言い分をどう伝えたらよいですか?

遊歩と宇宙の「自分がきらい」から「自分がすき」になる相談室画像

車いすを使っています。先日、友人とカフェに行ったら入店拒否されました。前に拒否された時も、何も言えませんでした。でも、すごくいやな気分が続きます。言い返したいと思っても、怖くて言葉も出てきません。こんな私にもできるような、いい伝え方があれば、おしえてほしいです。(カフェオレ・20代・学生)

「差別にあったら、それはチャンスです(遊歩)」
 差別にあったら、差別を止めていくいいチャンスだと考えて、関係性をつくっていくことが大事です。
 ただし、関係性をつくるということは、自分の権利について、黙り、我慢することではありません。店に入れないという権利侵害を受け、痛みやつらさをどれだけ感じているかを自分でしっかりと自覚し、あきらめることなくその店に通ったり、ほかの人の力を借りることも大切です。
 私も最近、入店拒否を受けました。駅中のうどん屋さんで、「車いすの方は無理ですから」と頭ごなしに言われました。なぜ無理なのかを聞くと「机といすが動かない」という理由でした。「お客さんがいっぱいなので」と店員は言って、私の後ろに並ぶほかの客を店内にどんどん案内していきました。のぞきこむと確かに狭くはありましたが、車いすが入れない狭さではありませんでした。なので「それは差別なんですよ」と言っても、私の言葉は無視して、次に並ぶお客さんを入れ続けるので、「なぜ入れないのか、店長に聞いてきてください」と言うと、奥に入ったきり出てこなくなりました。
 そこに、制服を着たビル管理会社の人がたまたま通ったので、状況を話しました。そして、これは差別にあたることを説明し、店長に話すよう伝えました。その人が店内に入ってしばらくして戻ってきて、「どうぞお入りください」となりました。  たいてい、みんなは拒否されたら、その時点であきらめてしまいます。でも私は常に、地域で生きる障がいをもつ人として、自分をロールモデルだと自覚しています。そして、あきらめないという選択をし続けています。
 はっきり言って、今回のお店とも、これまで入店拒否をされてきた数々のお店とも、関係性がつくれたかと言うとそうではありません。でも私は、差別に向き合う時、まず、自分自身との関係性を意識します。その関係性には、二面あります。ひとつ目は、歴史の中で、障がいをもつことで黙らされ、我慢させられ、あきらめさせられてきた自分。もっと言えばその我慢すら、自覚できないくらい、差別されることが当たり前と感じていた自分。  ふたつ目は、小さい時から家族に大事にされてきたゆえに、障がいがあっても何でも言っていいし、主張していいし、自己決定をみんなと同じように通していいし、そのことが、差別を越えてゆくために必要なんだと認識している自分。  この両方の自分を、差別に向き合うたびに自覚させられ、考え続けるのです。
 差別とは、悪意と共にやってくるものより、善意と共にやってくることが多いので、非常に混乱させられます。  現在、札幌に住んでいますが、バスに乗ろうとして「あなたのためを思うから、必ず予約してください」と言われたことがありました。しかし、バスに乗車するのにいちいち予約していたら、それは、公共交通機関とは言えません。タクシーと同じなので、家の前まで向かえにきてもらえますか、と応答します。すると、善意に悪意をもって返すのかという態度を見せつけられます。  車いすの仲間たち数人でお店に行こうとした時、店内に席があるにもかかわらず、「狭いので別のお店に行ってください」と言われたことがあります。
 これはひどい差別だ、と私は言いかけました。ところが年上の友人が私を制して「差別と闘うより、おいしいものを食べたい。だから別のお店に行こう」と小声で言いました。彼は「車いす二人くらいだったら、言い返したかもしれないけれどね」と言いながら、外に出ていきました。その時は、私も彼の選択を尊重しました。
 しかし私は、いやな対応のお店に通える距離なら、通い続けます。私のやり方が正しい、と言っているわけではありません。多様な選択の中で、自分自身がどうしたいか。それが大切なのです。  差別は、足をふまれている側しか、その瞬間には気づけません。足をふんでいる側、つまり差別をしてしまった側が気づくためには、被害者がその痛みを訴えることが必要です。そうしなければ加害者に、人の足をふんでいることをはっきり自覚させることはできません。
 もし被害者の痛みを訴えなければ、相手は多少の違和感を覚えるか、あるいはまったく気づかずに通り過ぎてしまうか、どちらかでしょう。 「車いすだから、入店されたら困る」と言われて「ああそうか」と言ってしまったら、まるで、入店拒否した人のほうが、正しくみえてしまいます。拒否されたあなたが傷ついたとは、相手は想像もできないでしょう。
 差別に向き合うということは、自分が、足をふまれてめちゃくちゃ痛いんだ、ということに気づき、それを、まず自分が納得できるまで、伝えることです。
 多くの人は、伝えることのほうがさらにつらいので、足をふまれたまま我慢し続けます。しかしそれでは、社会は変わりません。  最初の差別は、自分自身に対する差別から始まります。それを差別の内面化と言います。それが続くと、あきらめや無力感、さらには自己否定感がつのって、差別されることが当たり前となってしまいます。
 しかし、あなたはあきらめませんでした。こうして私に聞いてくださったことで、次の行動を少しでも変えたいと思っていらっしゃるのです。つまり、内面化に決然と対抗しているのです。
 もしまた、何も言い返せなかったとしても、大丈夫。じっと拒否する人の目を見つめ、今ここで、何も言えないのではなく、次の戦略をさらに練るための勇気ある撤退なのだと考えてください。  自分自身をぜったいに責めないで。どの瞬間の自分自身もおとしめることなく、自己否定することなく、差別することなく生きていきましょう。(遊歩)

「練習が必要です(宇宙)」
 反論するのに、身構えてしまう気持ち、わかります。それで、さらなる拒絶にあうのも、怖いですしね。  でも、どちらにせよ最初に拒否してきているので、さらなる拒絶があっても、あまり状況は変わらないのかなと思います。そういうふうに考えてみたら、反論できると思えるでしょうか。闘うのが怖いという思いもありますよね。  議論にならないように、相手に思いを伝える方法もあるのではないかと思います。  私も入店拒否にあったことがあります。きっと質問者さんが拒否にあった時も、お店の中が満席だったわけではないと思います。そういう状況だったら、「満席ではないですよね? なんで入れないのでしょうか?」と、淡々と聞いてみるのはどうでしょうか。  予約客がいると言われるかもしれませんが、たとえば予約のサインが置いてなかったら、それを指摘することもできると思います。それでも、相手が拒否し続けるようでしたら、「今のあなたの態度は、差別にあたりますよ。上司を呼んできてもらえますか」とその人以外のお店の人を呼んできてもらうのも、ありかもしれません。  だいたい、拒否するほうは、自分がしたことをすぐに忘れてしまうものです。けれども拒否されるこちらとしては、そのあと何日も、いやな気分が続きます。だから、相手の行動がどんな影響を与えるか、伝えることは大切だと思います。  拒否された瞬間は、びっくりするからか、一瞬思考が止まって反応ができなくなったりしますよね。私は、そうなってしまうことがあるのですが、遊歩は、そんなことがまったくないようなのです。  遊歩を見ていて思うのは、反論ができるようになるためには、日々練習して、差別に対する反射神経を鍛えていくことが必要だということです。本当は練習する必要があってほしくないことだけれど、まだあちこちにバリアがある社会である限り、素朴な疑問を指摘するようなところからでも、一緒に、変えていきましょうね。(宇宙)

安積遊歩(あさか・ゆうほ)
1956年福島県福島市生まれ。生後40日目で骨形成不全症と診断される。22歳で親元から自立。 1983年から半年間、アメリカのバークレー自立生活センターで研修を受け、ピア・カウンセリングを日本に紹介。 障がいをもつ人の自立をサポートする。2011年まで、再評価カウンセリングの日本地域照会者。 1996年に40歳で愛娘・宇宙を出産。優生思想の撤廃や、子育て、障害を持つ人の自立生活運動など、様々な分野で当事者として、からだに優しい生活のあり方を求める発言を続ける。 著書に『癒しのセクシー・トリップ』『車イスからの宣戦布告』、共著に『女に選ばれる男たち』など。

安積宇宙(あさか・うみ)
1996年東京都生まれ。安積遊歩の娘。母の体の特徴を受け継ぎ、生まれつき骨が弱く車いすを使って生活している。 小学校2年生から学校に行かないことを決め、父が運営していたフリースクールに通う。ニュージーランドのオタゴ大学在学中。

 

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