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「第2回 未来のための過去」

なつかしい未来の国からバナー_青空と一本の木

マオリの時間

 今日は、この留学記の名前の由来の話から、はじめよう。

 Te Ao Maori (マオリの世界観)の中では、過去と未来の時間軸が、私たちの知っている方向とは逆方向だ。そのことを学んだのは、大学一年生のマオリ語の授業だった。時間についての言い回しを学んでいる時に、教授が、「マオリの人たちにとって、過去は前にあり、未来が後ろにあるんだよ」と教えてくれた。

 驚きつつも、私は新しいことを学ぶのが好きなので、早速頭の中で、過去を見ながら未来に背を向けて進む姿を、想像してみた。そしたら、たしかに、今まで歩いてきた道を見つめながら、後ろ向きに未来へ進んでゆく姿が目に浮かんだ。

 私たちは、今までの経験の積み重ねでできている。だから、過去を見つめながら、後ろ向きに進むという考え方は、未知に向かって歩くというより、これまで一歩一歩積み重ねてきたものを大切にして進むこと。そう解釈すると、このマオリの世界観が、すっと心の中に入ってきた。

 現代では、たとえば「未来を切り開く」という言い方があるように、「発展」や「進化」することに重点が置かれ、過去に学んだことや積み重ねてきたことを、ないがしろにしてしまうことがある。

 マオリの文化には、元々継承文字はなく、知識や歴史は口伝によって受け継がれてきた。人の記憶の中にしか存在しないそれらの情報は、ゆっくりと、大地を踏みしめるようなスピードで伝わってきたのだと感じる。

 私は今、ニュージーランドの大学でソーシャルワークを学んでいる。前回、この国が大好きと書いたけれど、授業の中でニュージーランドの「負」の部分について知り、考える機会もまた、たくさんある。

 たとえば、ニュージーランドでは、家を売った時の所得税の額は、無いに等しいようなもの。最近、それを見直すための議論が国会で行われたのだけど、結局、法律は変わらないままだった。家賃や家の値段は、ニュージーランドの中の大きな問題の一つで、学生や、片親の家庭の人たちを含め、多くの人たちが、住宅の問題で苦労している。

 それでも私は、ニュージーランドに、未来の世界のあり方の「ヒント」があるように思う。それは、過去の経験を大切にし、そこから学びつづける人たちが紡いできた「今」が、社会の中に確かに息づいていることを感じるからなのかもしれない。

 日本に帰ると、時々、「近未来」にタイムトリップしたような気分になる。街並みや、いろいろな技術が目覚ましいスピートで発展していっているからだ。でも同時に、人の生きづらさのようなものも、深くなっているように感じる。

 発展を続けてゆく先に、どんな未来が待っているのだろう。近未来を描いたSF映画の多くは、灰色で、汚染されたり、機械が人間を支配しているような世界のお話。果たして、私たちはそんな未来を目指しているのだろうか。日々技術や街並みは発展する中で、その先にある、どんな世界に住みたいのかというイメージが、日本は、欠けているように思えてしまう。

 

空の裾がまだ少し明るいこの時間が、私が一番好きな時間。

 

 ニュージーランドにいると、「未来にきた!」みたいな感覚になることは、ほとんどない。ここにある風景は、どこかなつかしく、親しみをもつことが多いのだ。

 二四時間空いているお店も少なく、ほぼ全てのお店は、午後五時までには閉店する。電灯も少ないから、夜になると町の中心部以外は、満点の星空が見える。

 かと言って時代遅れではなくて、社会のあり方には、未来を感じる。たとえば世界の中でもいち早く同性婚が認められたり、マオリの人たちの知恵を社会の中でも生かそうとする動きがあって、先住民の人たちの権利意識が高い。女性が参政権を得たのが世界初だったりもする。高層ビルがたくさんある街並みは本当に少なく、世界的にみてイノベーション力が高いわけではないけれど、多様な人がともに生きやすい社会を作ろうとしていることに、ほっと安堵感を覚える。

 今、大学四年生になり、これからの未来をどうしようかと考えると、先が見えない気分になることもある。そこで今回は、マオリの考えにならって、未来に進むために、今まで歩いてきた道を振り返ってみようと思う。

 

小さな町の語学学校

 私の留学は、実は、計画して始めたわけではなかった。そのことについては、また回を改めて書こうと思う。

 最初に住んだのは、今住むダニーデンとは遠くはなれた北島の北部、フィティアンガという町だった。ビーチ沿いのリゾート地で、人口は四〇〇〇人。そんなに人口が少ない街に、英語学校はふたつもあって、その片方のオーナーが日本人の方だった。その学校に日本の高校生向けプログラムがあったので、中学三年の初めに、そこへ入学した。

 生徒数は約三〇人と小規模で、多くの生徒は日本人か、サウジアラビアから来た生徒たち。日本人のほとんどは私と同じように、八カ月間その語学学校に通ってから、現地の高校に移るプログラムを選択していた。

 多様な国籍の人の出会いは新鮮だったけれど、先輩の女子生徒が、ターゲットを変えて私たちの学年の関係性を荒らすなど、日本人同士の中で苦労することもあった。彼女が、「車イスを使ってる宇宙と一緒にいたら差別されるから、一緒にいたくない」と言っているのが人づてに聞こえてきた。それは、私にとって初めて、はっきりとした言葉で差別を意識する瞬間だった。

 その時は、返す言葉を見つけることができなかった。おかしいと思ったことに立ち上がれなかったこの頃のことは、自分に対してという意味でも、苦い記憶として残っている。

 でも、楽しいこともたくさんあった。英語で地理や数学を習ったり、自分の考えを英語で言えるようになっていったこと。サウジから来た生徒たちや、ヨーロッパから来た生徒たちとも親しくなったこと。一〇代半ばで文化の違いを肌で感じられたのも、よい刺激だった。

 田舎町だったから、「遊び」に行く場所はほとんどなく、休日は友人たちと集まってご飯を作って食べたり、ビーチに行ったりと、のんびりして過ごすことがほとんどだった。

 語学学校を卒業した後は、その隣にあった地元の高校に移った。

 だいぶ英語に対して自信がついていたのだけれど、いざ地元の高校に入ってみると、同級生たちの英語は先生たちの英語より二倍から四倍速く聞こえて、最初はぜんぜん何を言っているのかがわからず、それでも、わかったふりをしていた。

 日本人はRとLの差がつけられないと言われるが、私の発音がまだよくなかったので、「ウミがReally? と言うと、いつもWeweと聞こえる」と笑う子がいた。そういうことがあると、話すのが恥ずかしくなってしまうけれど、話さないことには上達しない。笑われるのを避けるのではなく、笑われたら自分も一緒に笑うことにしていた。

 ようやく語学学校の人間関係から脱出したものの、地元の高校に移っても友だちグループというものが存在して、最初のころはそれを窮屈に感じていた。

 だけど、勉強の仕方はまったく日本と違って、宿題が少なく、授業も自習の時間が多かったり、自分で調べて考えて、レポートを提出する方式のものばかり。自分のペースで自分の興味を持ったことを調べたり、考えを深められることが、私には合っているとそのころから感じていた。

ある日のお昼休み。

 

車イスと友達のおかげで

 手動車イスを使っていたので、通学は、同じ語学学校にも通っていた日本人の友達が、毎朝迎えに来てくれた。彼女とは、英語の大変さや、友達に溶け込みきれないもどかしさなど、たくさんの思いや経験を共有して過ごした。異文化の町で、お互いを支え合える友達がいたことは、とてもラッキーだった。最初は、毎朝迎えに来てもらうことが、彼女にとって負担になるのではないかと不安だったけれど、だんだん、一緒の時間を過ごすためのいい理由であったと思えるようになった。

 学校では教室移動をするにも、人の手が必要だった。

 ニュージーランドの高校には決まった時間割はない。授業は選択制なので、授業ごとに教室が変わる。教室移動のたびに、まわりの同級生たちに「私の車イスを押して」と頼まなければならなかった。でも、それが話すきっかけとなり、同級生の多くと知り合うことができた。決まった同級生たちに頼むのではなく、たまに違う生徒に頼んだり、グループを超えて、色んな同級生たちの間を行ったり来たりしていた。属するグループによって見ている世界が違ったりして、いろんな視点で少しずつ教室をのぞくことができたのも、おもしろい体験だった。

 ある日の科学の授業中、男子生徒の一人が「女は科学ができないんだから」と発言した。すぐさま他の生徒たちが男女共に、「セクシストみたいなことを言うのはダメだよ!」と突っ込みを入れたことがあった。

 また、「お前ゲイみたいだな」と発言した生徒に、「それで何が悪いの?」という声が次々にあがったこともあった。そうしたやりとりを聞いたとき、初めはびっくりした。お互いの考えや発言に対して、「それは違うんじゃない?」と疑問をぶつけ合いながら、その話題が終われば仲良く過ごせる、という関係性が衝撃だった。
 高校三年間でゲイの友達もできたり、日常の中で、お互いを尊重しつつ、それぞれが生きやすい環境をみんなで作り上げている。その輪に、自分も入れたような手応えがあった。

 

ビーチにメッセージを込めて。

 

 そのころは英語をしっかり理解できず、会話に入っていけなかったり、自分がもどかしくて悔しい思いになるときがいっぱいあった。車イスやアジア人であることなど、人と違うことで疎外感を感じることもあった。それでも、学校で一人ぼっちになることはほとんどなかった。その理由は、私が車イスに乗っていたから、だと思っている。車イスを使っていることに戸惑いを覚え、負担になりたくないと言う気持ちが生まれてきたのも、じつはこの時期だった。けれど、日々たくさんの人に車イスを押してもらわなければいけないおかげで、私はいつも人に囲まれていられた。その現実を前に、戸惑いや不安は遠ざかっていった。

 そして、人をジャッジするような発言に対して、すぐに「おかしい」と声をあげる友達にも出会えた。

 自分の車イスと友達のおかげで、失敗して落ち込んだり不安にかられるときがあっても、立ち止まることなく、自分なりに工夫を重ねて、毎日を過ごしてこられたのかもしれない。

 恋愛映画のようにドラマチックでもカラフルでもないけれど、私にとって高校の頃の日々は、ゆっくりと過ぎる濃厚な時間だった。それは、自分の中身を豊かにしていく時間だったのだ。

安積宇宙プロフィール画像_ニット帽
安積宇宙(あさか・うみ)
1996年東京都生まれ。母の体の特徴を受け継ぎ、生まれつき骨が弱く車椅子を使って生活している。 小学校2年生から学校に行かないことを決め、父が運営していたフリースクールに通う。ニュージーランドのオタゴ大学に初めての車椅子に乗った正規の留学生として入学し、社会福祉を専攻中。大学三年次に学生会の中で留学生の代表という役員を務める。同年、ニュージーランドの若者省から「多様性と共生賞」を受賞。共著に『多様性のレッスン 車いすに乗るピアカウンセラー母娘が答える47のQ&A』(ミツイパブリッシング)。
Twitter: @asakaocean

 

多様性のレッスン 車いすに乗るピアカウンセラー母娘が答える47のQ&A

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