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多様性はむずかしい?『宇宙のニュージーランド日記』刊行記念トークイベントリポート

車いすでニュージーランドの大学へ単身留学し、現在も同国で働く安積宇宙さん初の単著『宇宙のニュージーランド日記』の刊行を記念して、トークイベントが行われました。

ゲストに、認定NPO法人Dialogue for Peopleの副代表でフォトジャーナリストの安田菜津紀さんをお招きし、「多様性」をテーマに語っていただきました。その一部をお伝えします。



「私たちはチェック項目じゃないよね」

[安積] ニュージーランドにも多様性はいっぱいあっても、ちょっと見かけだおしというか、見た目がいいから、多様性を主張しようという部分もあると思っています。本当に多様な人たちが生きやすい社会になっているかと言ったら、まだそうではないなって感じることもあります。菜津紀さんにとって多様性には、どんな意味がありますか?

[安田] いきなり本質になりますね(笑)。最近はよくSDGsが掲げられて、ビジネス街でSDGsバッジをスーツの襟につけている方を日本では見かけるようになりました。そういう人はニュージーランドにいたりしますか。

[安積] 見かけたことないですね(笑)。

[安田] 多様性、多様性って掲げられているけれど、この社会の中でそれがどれくらい中身を伴うものになっているんだろうなっていつも考えています。

トーク中の安田菜津紀さん

安田菜津紀さん

実は私の父が在日コリアン二世で、私は三世代目に当たります。私が中学2年生の時に父が亡くなって、その後、戸籍を見て初めて、父の出自を知りました。以来、どうして話してくれなかったんだろう、と高校生のときもずっと考えてきました。そして最近、自分自身も差別の問題を取材するようになって、もしかすると語らなかったというよりも、語れなかったのではないか。語ることができなかった社会状況があったのではないかと思うようになりました。

私も自分の出自を隠さずに仕事をしていると、SNSでヘイトスピーチを受けるのは日常茶飯事です。誰もが自分のルーツや出自をつまびらかにして生きるべきだ思いませんが、少なくとも、隠したくもないのに隠さなければならない社会って、やっぱりゆたかとは言えないですよね。

多様性って何だろうってことを考えたときに、この社会で生きる上で、理不尽に声をつみとられたり、はぎとられたりすることがない社会なのかなと思ったんです。ただこの質問をしてくださったということは、宇宙さん自身がいま身を置いているニュージーランド社会の中で、多様性が本当に実現されているのかな? というモヤモヤ感みたいなものをおもちだということでしょうか。

トーク中の安積宇宙さん

安積宇宙さん

[安積] そうですね。大学時代、学生会の留学生代表という仕事をさせてもらいました。私は障害をもっていて、車いすに乗るアジア人で女性だから、声をかけられたのかなって。私がグループの中にいるだけで、多様性があるように見えるからという理由だけで、実際、私と本当につながりたいかというと、そうでもなかったのではないかな、と。たとえば学生会の事務所があった建物には直結のエレベーターがない中、毎日そこへ通っていました。でもそのときも、私が「学生会の事務所は車いすではアクセスがあまりよくないです」と言わない限り、何の対応もとられなかった。これは一つの例だけれど、本当の意味で私のことを知ろうとしてくれてないんじゃないかなって感じることが多かったんです。

卒業後、似たような経験をしている方に出会って、そのときの気持ちを打ち明けることができて、「私たちはチェック項目じゃないよね」って話しました。私たちが求めてるのはチェック項目をクリアして見た目をよくすることではなくて、お互いがかかわりあう中で、お互い生きやすい世界を自分たちのまわりから作っていきたいよねって。

ただ、お互いに深く知るということを、大学の学生会や国家レベルの大きな組織で実践するのは、すごくむずかしい、とも思うんです。でもニュージーランドには、その「多様性ってむずかしいよね」っていう思いを共有できる仲間がけっこういるんです。移民が多い国なので、子どもだけがニュージーランド育ちで、親の文化とニュージーランドの白人文化の間で違和感をもっているとか。いろんな角度から「多様性ってむずかしい」という体験を語れる場が多い。多様性ってじつはどういうことなのか、体験をもとに深めて考える機会が多いなって思っています。

 

違う惑星に住んでいる?

[安田] 詳しくは本に詳細が書かれていますのでぜひ。私もその「多様性はむずかしい」の章がとくに印象に残っています。宇宙さんのお話のように、かたちをととのえるためにマイノリティの人に声をかけるというのは、多様性があるということではないですよね。

読みながら私が思い出したのは、たとえばヘイトスピーチの問題を取材していて、「それって差別に当たる発言ではありませんか」と指摘したときに、「いやいや差別ではありません。自分には在日の友達がいるし」という言葉がよく返ってきます。黒人差別の文脈で言えば “No, I have black friends.” でも、マイノリティの友だちがいることが、ヘイトスピーチとか差別語を発したことに対する免罪符にはなりませんよね。

[安積] ニュージーランドでも同じことはよくあります。「アジア人の友だちがいるから」「ゲイの友だちがいるから」、僕は差別してないっていう。ほかにも「これは差別じゃないけど」って前置きしてから話すことが、すごい差別的な内容だったり。「差別じゃないけど」と前置きする時点で、その次は言わない方がいいよって思うんですけど。

会場の様子
[安田] ニュースから伝わってくるニュージーランドは、私は訪れたことがないのでなおさらなんですけれど、違う惑星の話に聞こえることがあります。とくにアーダーン首相が30代で首相になり、首相になったあとすぐに産休に入ったことも注目を集めました。ニュージーランドの選挙についても本で書かれています。投票率が80%を超えていて、国会の女性比率は50%だとか、マオリの方が外務大臣になったり……。そういうニュースを聞いていると、違う惑星に私は住んでいるのではないか、と。

[安積] ニュージーランドがそうなっている大きな理由は、やっぱり先住民のマオリの人たちが闘ってきたことがとても大きいと思っています。マオリの人たちはいま、ニュージーランドの人口の16%くらいと言われています。貧困率も高くて、社会的な不利益を受けている人が多いです。刑務所に入っている人の50%ぐらいがマオリの人とも言われています。だけど、そうした状況があるのは、植民地支配のせいで、脱植民地を目指して先陣に立ってこられたマオリの方たちもいますし、それを応援したいと思っている人も増えてきているように思います。やっぱり「数」ってすごく大切だなって思うんです。

たとえばマオリの人たちへの奨学金を増やして、医学部や法学部にマオリの人たちが入れるような制度を作ったり。そういう機会を増やすと、マイノリティを優遇しているとか差別的な発言をする人もいますが、でも、マオリの人たちが大臣とか社会的な地位につくことによって、差別がよくないという声のほうがだんだん大きくなってきました。私がニュージーランドに10年住んでいるあいだも、大きな変化が起きてきたと感じています。50年前、マオリ語を話すのは違法だったところを、それをやめさせる署名が始まって、それからマオリ語だけの幼稚園や学校を作って、やがてマオリ語は公用語になったという歴史があります。いまは、マオリ語の放送局があり、マオリ語を学べるラジオ番組も増えてきています。

そういう経緯を見ると、やっぱり数によって社会が変わっていくんだなって思うんです。クォータ制というと、マオリだから、女性だからって役職を得るのはどうなんだみたいな声もある中で、数を増やすことによって見えない経験が可視化されて、そうして社会は変わっていくだなあって、ニュージーランドで感じています。


[安田] 社会的な構造の中で、声を届けられなかったり、声を奪われてきた人たちであるという文脈を抜きにして、「いや数じゃないし」って言われることは多いですよね。私がときどき仕事をする法学者の方からうかがった話で、たとえば10人、人がそろってカレーかラーメンどっちを食べに行くかというときに、9人にカレーと言われたら自分1人がラーメンと思っても、言えないと思うんです。たぶん2人でも、8割がカレーだったらちょっと……となる。それが3人になると、「あ、ラーメンが好きな人もいるんですね」って初めて存在を認識される。4人がラーメンとになれば、「あ、じゃあ別々に行ってみようか」とか「今日はラーメンにして明日カレーを食べにいこうか」とか、代案が出てくる。数じゃないって言われるけれど、大きな文脈の中で考えなければいけないし、数だって大事なんだよってところはあると思うんです。


(2023年1月16日、青山ブックセンター本店にて)


 

▼宇宙のニュージーランド日記 なつかしい未来の国から

ニュージーランド日記の表紙、海辺で微笑む安積宇宙さん

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