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「第9回 荷物の多さについて(前編)」グローバルサウスの片隅で/ 三砂ちづる

 旅支度について。どこかに出かける時、荷物を作ると思う。荷物を持ってくれるお付きの人がいつでもいればいいのだが、そんな人をいつも従えている人などこの民主社会にあってほとんどいないので、みんな荷物を自分で持つ。いまはどこにいっても、スーツケースにキャスターがついているのを持っている人がほとんどであり、荷物は自分で運ぶのだが、これができるようになって、まだそんなに時間が経っていない。
 調べてみるとキャスター付きスーツケースの特許は1972年にアメリカの方がとられているようだが、実際に製品化して大量生産しはじめたのは、当時のシュワイダーブラザーズ社(現在のサムソナイト)と技術提携した日本のカバン会社ACEで、1971年のことだったという。そうか、1972年にはすでにキャスター式縦型のスーツケースができていたのか、と感心するが、昭和33年生まれ、現在66歳のわたしの渡航歴を振り返ってみても、キャスターつきのスーツケースを持つようになったのは、1990年代以降であったように思う。
 生まれて初めて渡航した海外は、22歳の時のパキスタン、ケニアであったが、そのときのわたしは小学校の時に所属していたガールスカウトのキャンプで使っていた、茶色い布製の、上部は巾着のように縛った上からフラップがついていて、両側に大きなポケットのついた、いわゆる「リュックサック」を持って行った。こういうかばんだと、ナイフで切られて荷物が盗まれますよ、といわれたが、当時の私はスーツケースなど持っていなかったのである。
 そののち、1984年、26歳で青年海外協力隊に参加してアフリカのザンビアに赴任した時は、引っ越し荷物はアナカンと当時呼ばれていた非携行手荷物(unaccompanied luggage)として送り、スーツケースはジュラルミンのような銀色の四角のものを買って、そこに荷物を入れ、ベルトを巻いて運んでいたがそれにはキャスターもついておらず、空港宅急便もまだなかったので、人の情けに頼って、なんとか空港まで運ぶしかなかった。空港についても、重い荷物は自分では運べないため、空港のポーターにチップを払ってお願いする、というのがどこの空港でもやらなければならないことだった。1987年、イギリスに留学した時も、まだこのジュラルミンのスーツケースで移動していたが、荷物に関してはありとあらゆるトラブルの発生を経験することになった当時のパキスタン航空カラチ経由で、そのスーツがついたときには、さすがに金属製のスーツケースは切られてはいなかったが、スーツケースの辺についている金属製の留め具が半分抜かれていて、スーツケースは使える状態ではなく、パキスタン航空に弁償してもらった。弁償代で、ロンドンのオープンマーケットで購入した安普請のソフトスーツケースにもキャスターはついていなかった。
 1990年代に世界中を仕事で回るようになった時も、持ち込み手荷物にもキャスターは付いておらず、空港内で楽に移動できるように、折り畳み式の荷物運び用キャスターのついたキャリーに自転車に荷物を固定するようなゴムバンドで手荷物をしばりつけて空港内を移動していた。大型のスーツケースにキャリーがついたのを使い始めたのも、1990年と1992年生まれの子どもたちが生まれてからだから、30年弱、というところだろうか。そのころから、世界の手荷物状況は画期的に変化していって、世界中の人がキャスター付き、しかも4輪キャスター付きのスーツケースを持つようになり、持ち上げられさえすれば、なんとかどこにでも運べて、運びながら歩けるようになって、ポーターやタクシーに頼まなくても移動が可能になった。これこそが、移動の民主化、とでも呼べるようなものと言えるだろう。

 日本にいると、移動荷物は身軽なほど、旅慣れているものだし、荷物は少なくするほどいい、という感覚があると思う。5年ほど住んだイギリスでも同じように感じた。イギリスの皆様も、荷物は身軽でさっと動けるのが旅慣れていていいのだ、という感じがあったと思う。だから、旅荷物はミニマムに、できるだけ少ない方がよろしい、というのはなんとなくユニバーサルな態度であると思っていたが、世界は広かった。
 二人の子どもたちの父親はブラジル人である。ブラジルの人と家族になって15年くらい過ごしたのだ。家族になると、一緒に出かけるから荷物も作る。気付いたのは、彼は、旅荷物を少なくしようと、ちっとも考えていない、ということ。彼だけではなくブラジルの人は、仕事であろうとプライベートであろうと、昼間の服装のまま、夜に出かける、ということを、しない。夜に食事に出かける(旅に出るとたいてい、そうである)前には、一度、家やホテルに戻り、シャワーを浴びて、さっぱりして、服を着替え、靴をはきかえなければならない。昼間に出て行った服のまま、また、同じ靴で夜出かけるなど、そんな野暮なことはないのである。
 このあたりが、日本にいるのと一番違う、と思ったところだと思う。日本では働いている人は夜に食事、とか飲み会、とかなると、もちろん働いている服のまま行くのである。ちょっと上着を変えたり、女性は化粧や髪型を整えたりするとは思うけれど、シャワーまで浴びて、下着から全て着替えて靴も違うものを履く、とか、想像することもできない。ようするに、おしゃれと身だしなみ、という感覚が全く異なっているのである。
 ブラジルにいると本当に1日に何度もシャワーを浴びた。私がいたのが熱帯ブラジル、ということもあったが、とにかく何度もシャワーを浴びる。朝起きたら、まずシャワー。これはブラジル全国共通の必須の生活習慣のように思われた。私たちは1日の終わりに、1日の汚れを落とす目的で入浴するのだが、世界は大きく分けて「朝入浴」のところと「1日の終わりに入浴」のところにわかれるのではないか、と思われるほどである。
 30歳になる頃、ロンドン大学衛生熱帯医学院に留学した。「発展途上国における地域保健」という名の修士課程のコースにいたのだが、クラスメイトは25カ国からきた32名であった。アジア、アフリカ、ラテンアメリカ、ヨーロッパ、オセアニア……と文字通り世界中から集まった32名である。このうちかなりの人数が、ロンドン大学が大学院生用に提供する(大変狭い相部屋の)寮に住んでいた。ある朝、その寮のある地域が断水した。シャワーを浴びることはできない。ブラジル、ペルー、コロンビアなどのラテンアメリカ組と、ガーナ、ジンバブエ、ソマリアなどのアフリカ組は、「水が出ないのでシャワーを浴びることができない、シャワーを浴びずに、大学に行くことはできない、今日は欠席」、と、冗談でなく、本当にそう言うので、その日にプレゼンする予定だった学生はアジア出身勢(台湾、タイ、ミャンマー、そして私が日本)と交代したのである。アジア出身勢は、入浴は1日の終わりでいい、と思っていたようなのである。台湾出身のイファは大学院生用の相部屋の寮でナイジェリア人の女性医師リズと同居していたが、いつシャワーを浴びるか、で議論になったわよ、といっていた。リズは絶対朝シャワーを浴びる、イファにあんたなぜ、浴びないの?朝起きた時は汗かいてるのよ、という。イファはずっと寝床にいたのに体は汚れてない、1日の終わりにお風呂は入るものでしょう、という。議論は平行線を辿った。というか、もう30も過ぎてそれなりの仕事もして家庭も持っている大学院生を、ビジネスホテルのツイン程度の大きさの相部屋におしこめるのがまちがっているのだ。数多のトラブルが生まれ、なんとかのりこえ、みんな卒業したのである。
 で、アフリカやラテンアメリカの方々は、朝、浴びるだけでなく、1日の終わりにもシャワーを浴びているようだ。そしてとりわけブラジルの人たちは、ものすごくまめにシャワーを浴びていることを観察してきた。
 とにかく、ブラジルの人は、職場の格好のまま、夜、出かけたりはしない。夜は仕事ではない、社交、友好の場なのだから、イイカゲンな格好で出て行ってはいけないのだ。シャワーを浴びてさっぱりして、髪を整え、アイロンの効いたシャツを着て、全て着替えて、靴も変える。で、この生活習慣を旅先でも崩す気はないので、一旦旅に出る、ということになるとそれがたとえほんの数日であったとしても、これは昼の服、これは夜の服、これはまた、その昼の服と似合う靴……などということになり、大変な量の服と靴を持ち歩くのである。え、そんな引っ越しほど荷物持ってどうするの、とか、日本であれば言われるであろう。ブラジルでそういうことを言う人はいなかった。キャスター付きのスーツケースがないころでも、手提げのボストンバッグをいくつも持つことになっていた。たいへんじゃないの、その荷物?というと、え?荷物?持てばいいんじゃない?という会話は、ブラジルの我が家では何度となく繰り返された。ラテン系の方々にとって、荷物を減らすということは少しもプライオリティーではなく、むしろ、旅に出るのに、出かけるにふさわしい服や靴を一式持っていくことの方がよっぽど大事、ということで、まあ、それはそれですごく正しい。
(続く)

 

三砂ちづる三砂ちづる (みさご・ちづる)  
1958年山口県生まれ。兵庫県西宮育ち。津田塾大学名誉教授、作家。京都薬科大学卒業、ロンドン大学Ph.D.(疫学)。著書に『オニババ化する女たち』『ケアリング・ストーリー』『六〇代は、きものに誘われて』『頭上運搬を追って 失われゆく身体技法』『少女のための性の話』『少女のための海外の話』、訳書にフレイレ『被抑圧者の教育学』、共著に『家で生まれて家で死ぬ』他多数。

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